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「熱気球ホンダグランプリ」が目指したもの
「熱気球ホンダグランプリ」は今年20年目を迎えます。
1993年の2月11日午前7時50分に、佐久市の鳴瀬佐久橋グランド(現在の千曲川スポーツ広場)から、日本気球連盟の現理事長の小笹純嗣パイロットが操縦するヘア気球「JBS6」が離陸しました。ここから「熱気球ホンダグランプリ」の歴史が始まりました。ヘア気球は、会場西側の山に向かって1kmほどフライトして着陸しターゲットを展開しました。その気球を追う、参加気球は14機(グランプリ参加チームは11チーム)その中には今でも第一線で活躍している上田祥和選手や高島工選手をはじめ、その後ホンダグランプリを勝ち続けた藤田昌彦選手の姿もありました。
イメージ 「熱気球ホンダグランプリ」は、本田技研工業から「佐賀だけでなく日本各地で熱気球大会が出来ないだろうか?」という要望から始まりました。そして、故 角田正氏と私が構想を練り、日本の熱気球大会の発展とパイロットの技術の向上を図ることを目指して、1992年に開催を発表しました。当時、佐賀の大会以外に本格的な熱気球競技会は日本で開催されていませんでした。その中でまず、佐久と鈴鹿の大会をスタートさせ、続いて日本で最初の熱気球大会である、北海道上士幌の大会を加えて4大会で始めました。翌年には栃木県小山の大会が加わり、5大会をシリーズ化するという現在の体制が出来上がったのです。
「熱気球ホンダグランプリ」が目指したもの。その一番目は、競技性の高い熱気球大会の開催です。
現在の熱気球日本選手権が、ホンダグランプリの開催地である佐賀、鈴鹿、佐久で開催されている事は、ホンダグランプリの大会が競技性を重視した大会を目指してきた証です。イメージ
私は熱気球大会が成功するために最も重要なことは、その地域の人々が自分のまちの自慢できるものとして「熱気球」の存在を自覚し、地元の方々の多くがこのイベントに携わることだと思っています。熱気球大会の期間中に宿泊施設がいっぱいになり、そのイベントが数多くの新聞やテレビで報道され、地域の名前を全国に知ってもらえる。そんなことから地域が活性化し、熱気球大会が文化として地域に定着することができるのではないでしょうか。
イメージ そうなるためには時間がかかります。私は熱気球大会を始めるときには、いつもやがては地域の人が主催できるように、その手助けをしているのだと考えています。何年か熱気球大会を開催し様々な経験を積むことで、地域の人が中心となり大会を運営できる時が必ずきます。スポンサー集め、広報活動、イベントの運営、観客対策と多肢にわたってその組織には大会開催のノウハウが蓄積され、多くの人々がそれに関わっていきます。つまりこの主催組織こそが地域の財産となるのです。
イメージ 携わる人の中には、もちろん自治体があります。熱気球大会を地域に定着させるためには、自治体のバックアップが必要不可欠だからです。自治体はトップが変わると支援体制が変化することが多いのですが、今成功している大会は長期にわたって協力してくださっています。第1戦「渡良瀬バルーンレース」の栃木県藤岡町は、合併して栃木市となり、より一層の力強いバックアップが始まりました。
「熱気球ホンダグランプリ」の目指したもの。その二番目はパイロットの技術向上です。
イメージ 日本のパイロットが世界で戦えるために、年間50ものタスクを季節や地形など異なった条件下で実施しよう。そして、その年の一番強いチームを決めようということを考えました。熱気球はクラブ単位で活動しているため、大会ごとにパイロットを変えることが出来るシステムですが、強いチームは一人のパイロットが全戦出場するというチームが増えてきました。藤田昌彦選手(現在は2代目の雄大選手)も水上孝雄選手もほとんど一人で戦ってきました。最近はこの傾向が強くなってきています。
採点方法は、1位12ポイント、2位9ポイント、参加すれば2ポイントという分かりやすいシステムを採用しました。このポイント制の特徴は、とにかく12ポイントを取ることが好成績につながるということです。従来の1000ポイント制と比べて、相手のマーカーより、いかに近くにマーカーを入れるかが重要なこととなります。つまり目指すべきはアベレージではなく、それぞれのタスクでいかにトップを取りに行くかということです。
イメージ パイロット達はグランプリに参加していることを誇りとするようになり、エントリー気球が観客にも分かるようにしてほしいという要望がありました。それが、現在のグランプリゼッケンのはじまりです。
今日本のパイロットは、もう少しで世界選手権の表彰台へというところまできています。グランプリ上位の選手の誰が日本代表になっても、世界と互角に戦うことができるでしょう。これが「熱気球ホンダグランプリ」20年の実績だと思います。
「熱気球ホンダグランプリ」が目指しているもの。その三番目は、子供たちに時代を超えて残る夢を育てることです。
イメージ 熱気球のそばには、いつも子供たちの笑顔があります。風に乗る熱気球は、空を見上げる子供たちに自分も自然の中の一員であるということを教えています。
「熱気球ホンダグランプリ」は、19年間で2280万人もの観客を動員しています。20年目の今年は2400万人を超えるでしょう。日本の人口は1億人です。その4分の1の人が熱気球大会に足を運んだことになります。20年という歴史は、子供の頃に気球大会を見に来た人が親となり、自分の子供を連れてまた見に来ることができる年月の長さです。時代を超えて残るものはすべてそのような循環を繰り返しているのではないでしょうか。イメージ
熱気球ホンダグランプリで活躍した選手たち
「熱気球ホンダグランプリ」で優勝したチームは、基本的に3チームしかいません。 藤田昌彦、藤田雄大選手の「BUMバルーンチーム」ホンダグランプリが始まった当時は藤田昌彦選手の独壇場でした。1993年から3連覇してその後8回の優勝を勝ち取っています。藤田選手があまりにも強いので、1996年から2部制(カテゴリー1、2に分けて実施)を採用しました。これも彼が強すぎて、他の選手から面白くないという意見が出てきたからです。しかし皮肉なことにこの1996年に藤田選手の連覇が止まります。止めたのは岩井重文選手の「チームFire Fly」でした。岩井選手は2002年にもアメリカのオーエン・キオン選手と組んで2回目の優勝を果たしています。そして最後は1999年に優勝している水上孝雄選手の「チーム寿」です。その後2003年から水上選手の黄金時代が続きます。優勝回数は6回、日本チャンピオンに3回、ワールドランキング5位と日本を代表するパイロットのひとりです。
そして今、藤田昌彦選手の息子の藤田雄大選手が、BUMバルーンチームとして2009年から2011年まで3連覇を続けています。「熱気球ホンダグランプリ」の歴史の中で3連覇は、藤田昌彦選手が1993年〜1995年、そして水上孝雄選手が2006年〜2008年と2回の記録が残っていますが、雄大選手が今年グランプリ史上初の4連覇の偉業に挑みます。イメージ
20回連続出場の「Wind Angel Balloon Team」の遠藤護選手は、日本チャンピオンに3回輝いている日本を代表するパイロットです。特に記憶に残るのは、最終戦のとちぎで藤田雄大選手に逆転された2009年です。最後はわずか2ポイント差でした。この年遠藤選手は全戦一人で戦い、雄大選手も全戦一人で戦ってきました。本当に悔しかったと思います。遠藤選手は「熱気球ホンダグランプリ」では、2位が5回、3位4回、ほとんど10位以内に入っています。
19回の歴史で、基本的に3チームしか優勝チームがいないということは「熱気球ホンダグランプリ」が、その時代に本当に強いチームのみしか勝てないシステムであるということを証明しています。アメリカのニック・ドナー選手が「自分が熱気球ホンダグランプリにエントリーしなければ、誰も藤田雄大選手を止められない」と、栃木で言っていました。さて、誰が雄大選手の連覇を止めることができるでしょうか?
最後になりましたが、この熱気球ホンダグランプリが20年間続けることができたのも、ひとえにメインスポンサーである本田技研工業株式会社のバックアップがあったからこそです。心より感謝申し上げます。これからも空を、自然を、そして熱気球を愛する人たちのために変らぬご支援をお願い申し上げます。
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